「御剣流剣術の打撃技『感電撃』。打ち据えた個所への脳からの電気信号を遮断する技だ」
淡々と告げられたその言葉を聞いていた少年は、今や身動き一つ取れない状況にあった。
目の前に立つのは、どこにでもいそうな風貌の少年である。男とそう変わらない…聞いた話では二つ年上だったか。とにかく、分類としては自分と同じ、”高校生”に属するはずであった。
しかし、その中身はどうか。
木刀を片手で軽く握るその姿は、どこまでも自然体だ。殺気や威圧感を纏っているわけでもなく、およそ戦いの場に身を置く者としては完全に浮いてしまっているといって良い。
故にこそ、その場においては一際目立つ存在であったのだが。
(一体何なんだ、こいつは…!?)
相手の放った技の影響で、首から下を一切動かせなくなった少年は、その圧倒的な存在感を持つ剣士から目を背けられない。周囲の、同じように無力化した面々も、その得体の知れない力強さに気圧され、小刻みに震えながらその場に佇むのみ。
そこへ、視界の影から響く男の声。
「ほう、なかなかやる…暇つぶしには丁度いい」
目の前の少年にケンカを売るに当たって、リーダー格の男が雇ったという、助っ人の男だった。名は、確かべヤードと言ったか。
学校の真ん前で真剣を持ち出す辺り、相当危険な男であることは疑いようもない。正直やり過ぎと思わなくもないが、頭数合わせの為に呼び出されただけの自分が、口を挟めるような状況ではない。
しかし、やり過ぎと感じた少年の感性は、次の瞬間誤りであったことを思い知らされる。
木刀対真剣。その圧倒的不利なはずの条件を前に、剣士は何ら怯む様子を見せない。しかもあろうことか、真正面から突っ込んでいったのである。
(し、死ぬ気かよ…!?)
言葉さえまともに紡げない自分は、その光景を傍観するしかない。そして想像の上では、どう考えても真剣に両断されるイメージが離れない。
しかし次の瞬間。剣士の姿が、消えた。
それが、視認出来ない程の速度で攻撃に転じた、少年の攻撃であると理解したのは、凄まじいまでの激突音が無数に響き渡った瞬間である。
ベヤードが展開した炎の壁をものともせずに、叩きつけるように繰り出される斬撃の乱れ撃ち。傍から見ると手当たり次第に繰り出されているように見えるが、当のベヤード本人の表情を見ると、どうやらそうではないらしいと伺える。
(焦っている…? どう見ても有利な状況なのに?)
その表情に気付いているのは自分だけらしい。その証拠に、周囲の面々は皆、防御を突き崩せない剣士に対して野次を飛ばしている。
だが少年が見たところ、ベヤードはどう考えても防戦一方と言うか、気圧されているように見えてしまうのだ。
(それだけ、アイツが強い…ってことなんだろうな)
圧倒的な数と共に叩きつけられる気迫をものともしなかった態度。真剣に木刀で正面から立ち向かえる勇気。そのいずれもが、今の少年にはないものである。それに思い至ると、数に物を言わせてでしか立ち向かえなかった自分と言う存在が、酷く惨めなものに見えた。
その時、場の空気が一変した。
これまではあくまでも自然体であった剣士が、初めて構えを取ったのである。右足を引いて半身になると、胸の前で水平に構えた木刀の切っ先をベヤードに向ける。
聞きかじっただけの剣道の知識の中に、そのような構えはない。だが、それがハッタリの類では無い事は、その身に纏う雰囲気が物語っている。
直感で察知した。これから繰り出されるであろう技は、必殺の一撃に違いない、と。
雷を纏うようにして突進する剣士の姿は、既に視覚では捉えきれない。だからこそ少年が見ることが出来たのは、その技によってもたらされた結果のみだ。
ベヤードが展開した防御をものともせずに打ち砕いた、轟く雷の如き圧倒的な一閃。
(……何なんだ、こいつは…!?)
立ち向かっておきながら、今更に戦慄する。目の前に立つ剣士の姿は、およそ自分と同じ人間の域にあるとは思えない。
それが素行不良の少年、紅弾吾(くれない だんご)が、雷の剣士・御剣志狼(みつるぎ しろう)に抱いた、最初の感想であった。
ちなみに。その後志狼は技の制御に失敗して、本来助けるべき少女を巻き込んでもう一騒動起こすことになるのだが、呆然としていた弾吾は全く気付かないのであった。
弾吾は一人、岬樹学園の生徒指導室へと連行されていた。
彼がだけが連行されたのは、単に彼以外の不良たちは我先にと逃げ出してしまった結果なのだが、彼一人逃げ損ねた理由はというと、目前で繰り広げられていた戦いに心を奪われていたからに他ならない。
薄情者と責め立てたい気持ちは充分にあったが、所詮は寄せ集めの集団である。そこまで気を配るような連中なら、伯仲堂々と一人を襲撃するために集まったりはすまい。
そんなわけで、貧乏くじを引かされる形となった弾吾は、固い床に直に正座した姿勢のまま、教員からの小言を小一時間聞かされるという苦行に耐え、ようやく解放されようとしていた。
二度とこのような騒ぎを起こさないよう念を押した後、教師は解散を宣言し、部屋を去っていった。弾吾はというと、完全にしびれてしまった足をほぐしながら、身動きが取れない現状に心の内で不満を並べ立てる。
(何で俺だけがこんな目に…俺が何をしたって…いや確かに襲撃とかやったな)
余りにも説教が長すぎて、自分が何をしたかさえ記憶の外へと放り出されていたようである。
それはさて置き。身動きが取れない弾吾の脳裏に浮かぶのは、やはり目前で広げられていた戦いの光景であった。
たった一人で徒党を組んだ不良に立ち向かう。それはまるで、幼い頃に憧れたヒーロー像の姿そのものである。流石にその当時、自分が倒される悪役側に回るとは想像もしていなかったが。
世の中の理不尽を目の当たりにして、次第にその精神を擦り切らせていった…要するに捻くれていったのだが、その一方であそこまで真っ直ぐな生き方を見せ付けられることで、妙な反発心を抱えていた自分自身を恥じる思いが芽生えようとしていた。
とはいえ。
(…俺にあんな生き方はできねぇ。”男は背中で語るもの”なんて台詞は、現実から逃げただけの俺には無縁のもんだ…)
捻くれた末に素行不良に陥った弾吾が、そう容易く心変わりなど出来るはずもない。もっとも、現実から逃げたと自覚している分、手遅れというわけではないだろうが。
しばらくそうしてうな垂れていると、足の痺れが取れていることに気付く。
「…帰るか」
一言だけ呟き、弾吾は生徒指導室を後にした。
数日後。
何とも言い表せないもやもやとした思いを抱えていた弾吾は、学校へ顔を出す気分でもなく、家の中で自堕落な生活を送っていた。が、いい加減痺れを切らせたのか、親が小言を口にし始めた段階で、逃げるように家を飛び出していた。
そんな事情であれば、当然ながら行き先などあるはずも無い。気の向くままに足を運んでいると、特に意識したわけでもなく街を離れていく。他人から遠ざかりたい、という意識もあったのだろうが、次第に人気は無くなり、その光景はつい先日に見たばかりのものへと変貌していく。
岬樹学園である。
「…………いや、ここまで来てどうしようってんだ」
本当に無意識での行動だったので、弾吾は学園の正門を目前にして、一人首を傾げていた。
見ると、何やら生徒たちが鞄を抱えて、次々と正門から出ていくようである。校舎に取り付けられた時計に視線を移すと、その理由はあっさりと判明した。
何てことは無い。単に下校の時間帯だったというだけの話である。
(…つーか、そんな時間帯に足運んで、それこそどうするつもりだったんだ、俺は)
自分自身の行いにあきれ返る弾吾は、大きくため息を吐くと、踵を返してその場を立ち去ろうとする。
声が聞こえたのは、そんな時だ。
「悪ィッ! ちょっとどいてくれぇぇぇぇぇッ!!」
絶叫と気迫と衝撃を纏って弾丸の如く突進する人影が一つ。生徒たちの間を縫うようにして接近してくるそれは、弾吾の脇を通り過ぎてそのまま遠ざかっていく。
ちなみに、その声には聞き覚えがあった。
(…この前の剣士…! 何急いでんだ? どう見てもただ事じゃないよな、あれ)
あれだけの強さを見せ付けた男、御剣志狼が、あそこまで取り乱す理由に興味が無いわけではない。あるいは、その強さの根源のようなものを垣間見えるかもしれない。
興味本位と僅かな打算のために、弾吾は嵐のように通り過ぎていった志狼の背中を追った。
追いつけない。辛うじて視界から消えるようなことは無いものの、距離は徐々に開いていっているようである。良く見れば相手の身体の動きがどこかぎこちないようだ。本調子ではないのだろうか。
(って、本調子でない時ですら追いつけないんかいッ!!)
殊更身体を鍛えていたわけではないが、だからと言ってこうも大きく突き放されると、ショックも小さくは無い。半ば意地で喰らい付くように全力疾走していた弾吾は、ふと相手のスピードが落ちていくことに気付いた。
どうやら目的地近くのようだ。周囲を見渡すと、いつのまにやら自宅の近辺、最寄の商店街辺りへと戻ってきていた。
志狼はその一角で立ち止まり、ガラス張りの建物へと飛び込むように突入していく。
それを確認した弾吾は、志狼の動きをトレースするように同じ位置で急停止すると、彼が飛び込んだ建物へと向き直る。その視線の先に書かれた衝撃の事実が、弾吾の視界に飛び込んできた。
『ただいまタイムセール実施中!!』
「単なるスーパーの特売じゃねぇかッ!!?」
往来のど真ん中であることも忘れ、思わず力の限り叫ぶ弾吾に、周囲から好奇の視線が向けられた。
流石に目立ちすぎたと、逃げるように路地裏へと逃げ込んだ弾吾は、気を取り直して物陰から、志狼が出てくるのを待つ。
しばらくして、満ち足りたような表情で数々の食材を抱えた少年が姿を現す。
「よぉし、まだ本調子とは言えねぇけど、何とか売り切れ前に辿り着けるようになったぜ…! 筋肉痛のせいでお預けだったからなぁ…」
感極まった様子で呟く彼は、何とも幸せそうな顔をしていた。残念ながら、弾吾には理解できない感情であったが。
先ほどとは変わって落ち着いた様子で、家路を急ぐ志狼に、弾吾はふと我に返った。
(…………考えてみれば、ここまでこだわる必要はねぇんだよなぁ)
とはいえ、今家に帰ったところで、待っているのは親からの小言である。
弾吾は多少熱が冷めているものの、志狼の後に続くのだった。
御剣道場。
そんな看板が出ていることを、弾吾は驚くよりも先に納得した。剣の腕が立つというのも道理である、と思い至ったからである。
「今帰ったぜ…って、誰もいるはずが」
「お帰りシロー。ごはんー」
「って、何でお前が俺より先に家に着いてるんだ…そして当然のようにメシを催促すんなッ!?」
塀越しに聞こえるのは、そんな賑やかな言い合いである。どこからどう聞いても、日常のひとコマとしか言いようの無い様子に、弾吾は腕組みをして首を傾げた。
(俺は何をしにきたんだっけ?)
ストーカーと呼ばれてもおかしくない行為を続けていることに、若干の不安を覚え始める弾吾。というか、まかり間違って捕まったりして、男のストーカーをしてました、なんて話が出回った日には、もはや人間としてお終いである。
そんな不穏な想像を抱えていると、ふと家の中から聞こえてくる声が、弾吾の方に向けられた気がした。
「あれぇ、お客さんかなぁ?」
志狼と話していた、相方の声だ。感じからすると同年代の少女のものらしいが、重要なのはそこではない。
(俺がここにいることがバレる…!?)
動揺していた弾吾は、その想像の全てが悪い方へと転がっていく。”最悪の想像”を含めて、である。
咄嗟に身を隠すことを思いついて周囲を見渡すも、手ごろな障害物など都合よくあるはずもなく。そして目前に備えられた玄関に人影が映った瞬間、弾吾は決断した。
体操選手も真っ青な程の、見事な飛び込み前転を決めると、御剣家敷地内へと飛び込んで建物の影にその身を潜め、息を殺した。それと入れ替わるように玄関の扉が開いた。
「…おかしいなぁ。誰かいると思ったのに」
誰もいないと判断したのだろう、玄関は直ぐに閉じられたが、弾吾の動悸が納まるまでには若干の時間が必要だった。
(あ、あぶなかった…!!)
何がどう危なかったのかは良く分かっていないが、とにかく身を隠した手前発見されたくない、という感情が働いたものと思われる。落ち着いて考えればそこまでする必要も無かったのだが、やってしまったものは仕方ない。
塀に背中を預けて深呼吸をしていると、脇に立てかけられていた棒状のものが視界に入ってくる。木刀のようだ。
(何でこんなトコに…?)
理由は分からないが、それがこの御剣家の私物であることに間違いないだろう。そして木刀と言えば、どうしても数日前に立ち会った剣士の姿を思い出してしまう。
そんな、言葉で言い表すのが難しい、奇妙な好奇心故だろう。弾吾は知らずの内に、木刀を両手で掴むと見様見真似で構えてみた。
重い。
(所詮木だと思ってたら…アイツこんなもん軽々と振り回してたのかよ!)
ろくに運動さえしていない、訛り切った身体には、傍目ただの棒切れに見える木刀も重く感じられた。或いは特注品で重量が増しているのかもしれないが、何にせよ剣先は震え、構えなどとても維持できたものではない。
が、だからと言ってそれを素直に認めるのは、どこか癪に障ったのだろう。腕の力だけを使って、二回、三回と素振りを敢行する。
痛い。
(……おいおい、冗談だろ)
自分の身体ながら、その耐久力のなさに突っ込まずにはいられない。たかだか数回の素振りで悲鳴を上げた身体が、根性なしであることは良く分かった。
(いや、根性なしは俺自身か…)
やや自嘲的な感傷に耽っている弾吾。その時である。
「腕の力だけで振ってると、痛めるぞ?」
突然掛けられた言葉に、心臓が飛び出すかと錯覚するほどに驚いた弾吾は、慌てて声のした方向へと向き直る。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、クマをモチーフにしたキャラクターの付いた、可愛らしいエプロンだった。
「……随分と可愛らしい助言者だな?」
「惜しい。もうチョイ上」
言われた通りに視線を上へと向けると、そこには先ほどまで追跡していた御剣志狼の、やや困惑の表情を浮かべた顔がそこにあった。
弾吾が絶句していると、何を思ったか志狼は手に握られている木刀に視線を落とし、再び弾吾を見た。
「経験者、って感じじゃねぇよな…木刀握るの、初めてなのか?」
「へ? あ、ああ、まぁ」
思わぬ方向から姿を見られた衝撃で、茫然自失としていた弾吾は、問い掛けに対して曖昧に返事を返すばかりだ。志狼はそれを単純な肯定と受け取ったのか、しきりに頷いて見せた。
「まぁ基本は竹刀と変わんねーし、実際やりながら覚えた方が早いだろ。ほら、立って構えてみろよ」
「…え? え?」
言われるままに立ち上がると、言われるままに木刀を正眼に構える。細かいレクチャーを受けながら、何故か素振りの練習をさせられる弾吾だった。
それから数分、懸命に素振りに打ち込んだところで、
「って、何でだぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「うおっ!? な、何だ一体!?」
突然雄叫びを上げた弾吾に困惑する志狼。
「何で俺が、こんなトコで木刀の素振りを指導されにゃあならんのだぁぁぁぁぁっ!!」
「え、お前ウチへの入門希望者じゃねぇの!?」
「違げぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!?」
もはやご近所大迷惑必死の、絶叫のオンパレードである。
お互いに肩で息をするほどまでに消耗し、返って落ち着く形となり、先に我に帰った志狼が尋ねる。
「じゃあ、お前こんなトコで何してるんだよ」
「俺はただお前に! お前…に?」
ずばり答えようとした弾吾は、志狼を指差した状態のまま硬直する。
そこから先の言葉が思いつかないのだ。
(そもそも俺、何でコイツの後つけてきたんだっけ…?)
絶叫合戦によって完全に記憶から排除されたようである。本人が忘れてしまっては、それ以外の誰にも分かるはずはない。
その弾吾の硬直に首を傾げていた志狼だが、ややして何かに思いついたように顔を強張らせると、その顔が恐怖に歪み、血の気が引いていく。
予想外の反応に眉を寄せる弾吾だが、次に告げられた言葉は、その予想外の範疇を更に超えたものであった。
「悪ぃけど俺、そのケは無ぇよ?」
「どのケだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!? つか、俺にも無ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
魂の叫びであった。
その直後である。
「やれやれ、玄関先で何を騒いでいるのだ、お前たち」
気配もなく、いつの間にやら背後に現れた男の声が響き渡る。大した大きさでもないのに良く聞こえるのは、声の聞かせ方を熟知しているという事だろうか。
「お、親父ッ!? いや、これは!」
志狼が慌てた様子で説明使用とするが、突然の父の出現に動揺したのか、上手い言葉が浮かばないようである。
「近所迷惑を顧みずに何を騒いでいたというのだ、志狼?」
よく見れば、その表情は決して機嫌が良いときのそれではない。むしろ短い言葉の中に、二人の行動をはっきりと非難する意思を感じさせた。
「…いや、別に好きで叫んでたわけじゃ…つか、近所って向かい側の家以外に民家なんてどこにも…」
思わず反論する弾吾に、剣十狼は視線だけを向ける。
ぞくり。
背筋に走る悪寒。それだけで返す言葉を失った。
「何か言い訳はあるかね…?」
追い討ちのように二人に掛けられた言葉に。
「……………イエ、アリマセン」
「……………オナジク。スミマセンデシタ」
志狼と弾吾は、共に絶対恭順の意志を示さざるを得ない。
結局、揃って道場の掃除を言い渡されることとなった。
「何だ、雑巾の絞り方もわかんねぇのか?」
「…るせぇやい」
志狼からの指摘に、不貞腐れたような返事をする弾吾。その手にある雑巾からは水が滴り、それで拭こうものなら床は間違いなく水浸しになりそうである。
実際のところ、世間で言うところのヤンキーである弾吾に、身の回りを拭き清めようなどという発想などあるはずもない。
しかし、指摘されると腹が立つのも事実である。
「…お前こそ、何でそんなに上手いんだよ」
「ああ、剣術修行の一環として、掃除自体はほとんど日課みたいなもんだしなぁ」
言い返した弾吾に返されたのは、彼にとって意外な言葉であった。
志狼の雑巾絞りは、言うだけあって手馴れている。まだ水気を多分に含んでいた弾吾の物と違い、水の一滴も垂れることはない。
自分が出来ないままという事が我慢できなかったのか、その順手と逆手によって行う縦絞りの動きを真似して試してみると、思った以上に水切りが出来ていた。
「……慣れか」
仏頂面で呟く弾吾に、
「慣れだな」
苦笑を浮かべながら答える志狼。
二人はしばらく、無言のまま別々に床を拭き始める。手馴れた様子でこなしていく志狼に対して、弾吾はぎこちないながらも、決して手を抜かない。身体を動かしていた方が少しは気が紛れる、ということだろう。
「…紅、弾吾」
「ん?」
呟くような言葉が聞こえたのだろう、何事かと視線を向ける志狼。弾吾は視線を合わさないままに告げた。
「俺の名前だ。まだ、ろくに名前も名乗ってなかったからな」
その言葉に、志狼は首を傾げる。思い返せば、確かにそれらしいことをした記憶はない。
「そうだったなぁ…御剣志狼だ。よろしくな」
「…ふん」
弾吾はやはり、視線を合わせない。
(慣れない事はするもんじゃねぇなぁ…)
改まって自己紹介をすることがここまで気恥ずかしいこととは思わず、心の内でため息をつく弾吾だった。
道場の掃除は滞りなく行われ、家主である剣十狼の厚意によって一風呂浴びた弾吾は、その御剣家で夕食をご馳走になっていた。
(いや、何で?)
食卓を囲むのは、自分を含め、御剣志狼、家主である御剣剣十狼、そして隣にすむという少女エリス=ベル。ただ、少女はエリィと呼ばれているらしい。
どこからどう突っ込んで良いものか迷っていた弾吾は、とりあえず目の前に用意されたおかずを口の中へと放り込んだ。
「美味い」
結局、端的な感想を口にするに留まった弾吾だった。それに同意するのはエリィである。
「おいしーよねぇ。流石はシロー!」
「へっ、褒めたって何にも出ねぇ…………ってオイ、独り占めにすんなッ! それは全員で食べる分だろ!?」
笑顔で箸を動かすのを止めないエリィに、志狼は突っ込みながらも負けじと手を伸ばしていく。
箸を刀に見立てれば壮絶な鍔迫り合いに見えなくもないが、取り合っているものがタコさんウィンナーな辺りが、今一つ緊迫感を感じさせない要因だった。
(…なんつーか。普通だ、この光景)
ありふれた光景。しかしそれは、今の自分には持つことが出来ないものでもあった。
家に帰れば、これと同じような光景は広がっているだろうか? 答えは、否だ。
そんな弾吾の心の動きに気付いたのか、剣十狼がそちらに視線を向ける。今度は先ほどのような威圧感は感じない。
「紅、弾吾君。今日はもう遅い、良ければ泊まっていきなさい……家には連絡を取っておいた」
その、内面を見透かしたような台詞に、弾吾の表情は驚愕に包まれた。口論になって家を飛び出してきていた手前、家に帰りづらかったのは事実である。しかしそれを今日あったばかりの男に見抜かれるとは、想像もしていなかったのである。
「…? 何だ、親とケンカでもしてたのか?」
志狼の言葉に、眉を寄せる弾吾。しかしここで口にしないという事は、その指摘が正しいことを認めることと同義であった。
「…まぁな」
結局、そう言い返すことしか出来ない弾吾だった。実際にはそれ程深刻なことと考えていたわけではないのだが、日常のあり方に格差を見た手前、心穏やかとは言えないのが本当のところである。
「…けど、よくウチに連絡出来たな……ましたね?」
言葉遣いを修正しつつ、素朴な疑問を口にする弾吾。
「学園に在籍している以上、連絡先の一つ調べることは難しくはない」
「え! お前岬樹学園の生徒だったの!?」
剣十狼の言葉に驚く志狼。
「しかも、今年入ったばかりのな」
「私たちよりも年下!!」
続いてエリィ。
当の二人を真正面から見据えた上で、改めて言った。
「こうして見てると双子みたいなのに…!」
「「誰がだッ!?」」
揃って突っ込むその様子は、確かに二人の共通項ではあった。
その様子に、剣十狼は棘のない笑みを浮かべている。その様子は傍から見守る父親の姿である。
「まぁ理事長という立場上、不登校の生徒を放っておくことも出来なかったわけだが…だからといって、無理強いをするつもりもない」
その言葉は意外であった。教職に就く者であれば、それこそ先程の一睨みで屈服させようとするのではないか、ぐらいの意識はあったからだ。
「嫌々足を運んでおるようでは、他人のためにも自分のためにもならんよ。もし君が、自分で考えて復学するというのであれば、私としては嬉しい限りだがね」
剣十狼の言葉に、弾吾は言葉を返すことが出来なかった。
空き部屋となっていた一室を割り当てられた弾吾は、畳の上に引かれた敷布団に寝転がり、ぼんやりと天井を見つめていた。
奇妙な一日だった。それが弾吾の抱いた正直な感想であった。
圧倒的な強さを誇っていた志狼。彼が過ごす日々は平凡であり、その様子も剣を振るっていた時とは別人のように穏やか…とは言い難かったが、雰囲気を比べれば同一人物とは思いがたいほどではあった。
(あれが、強者の余裕…とは違うか。そもそも、強いってのはどういうことだ?)
腕っ節という意味では、志狼も、剣十狼も、そして先日のベヤードという男も、確かに強いはずだ。
だが。
(腕っ節に惹かれたワケじゃねぇ…何かがあるんだ。力以外に…上手く言葉にできねぇような、何かが)
心の内で、形になりそうでならない答え。普段のような、周囲に対する苛立ちではない。それは焦燥感にも似た、自分自身への苛立ちである。
「……頭冷やしてくるか」
弾吾は起き上がると、障子を開けて、夜風が冷たい庭へと出て行った。
月明かりが綺麗な夜空である。周囲は静まり返り、虫の鳴き声が子守唄のように響いていた。
弾吾は一暴れ出来そうな程に広い庭先に降り立つと、夕方ごろに素振りをしていた木刀に目をやった。
(素振りの基本は雑巾絞り、か)
木刀を手に取り、周囲に物がないかを確認してから正眼に構える。
雑念は捨てた。無の境地とかそういう格好いいものではない。単に考えるのが面倒臭くなったからである。
素振りと、聞きかじっただけの足運び。一回、また一回と、空を切る音が響く。
最初は適当に振り回していたが、次第に自分の中でリズムをつけるようになり、その動きは少しずつ規則正しいものへとなっていく。夜風に冷えた身体も、程よく温まってきていた。
(頭冷やしに来たつもりが、すっかり温まってるじゃねぇか)
心の中で自分の行動に突っ込むと、弾吾は手を休めて空を見上げた。周囲に民家がない影響か、見上げる空には月を中心に、散りばめられた宝石のような星が輝いている。
綺麗だと、純粋に思った。少なくとも、数日前の燻っていた自分では、同じ感想を抱くことはなかっただろう。
(ふん。これなら、あの御剣志狼に感謝してやってもいいかもな)
素直にそう思える自分に驚いた。
「よぉ。こんなトコで何やってんだ?」
自分に向けられたその言葉に、弾吾の背筋が凍りつく。気持ちのいい筈の汗は冷や汗へと変わり、ぎこちない動作で声の方へと振り返る。
そこに居たのは見知った顔である。それこそ、数日前まで行動を共にしていた男であったからだ。
「ベヤード…さん」
真剣を肩に担いだ長身の男。その頬には数日前の戦いの名残、刀傷にも似た傷跡が残されていた。御剣志狼に敗れたとはいえ、自分とはかけ離れた実力を持った用心棒。
「お前、確か前の襲撃のときに居た奴だよな? こんなトコで何やってんだって聞いてんだよ」
自分の顔が覚えられていたことに驚きつつも、その口調がどこか責め立てるものであると感じた弾吾は、言葉を返せなかった。
ベヤードは舌打ちすると、吐き捨てるように言い放つ。
「…人に助っ人を頼んでおいて、負けた途端に掌を返すとは、いい性格してるじゃねぇか。なぁ?」
最後に同意を求めたのは、ベヤードの更に後ろである。そこには、やはり見知った男の顔があった。
かつて弾吾を含めて、不良のグループを纏めていた男である。名前は…何と言ったか。今はかつての威厳というか勢いは鳴りを潜め、ベヤードに顎で使われている様子が伺える。暴力に屈して従っているのが丸分かりであった。
その更に背後に、ぞろぞろと付き従っているのは、かつての自分と同じ立場である不良たちである。その出で立ちは統一性などないが、一つだけ共通項がある。
それは思い思いの形で、武器を抱えた臨戦態勢であるという事であった。
「……一体、何を」
震える声音で、それでも何とか言葉をひねり出す弾吾。ベヤードは姿勢を崩すことなく、その表情を怒り一色に染めて答えた。
「俺はな、あいつを殺らなきゃ前へ進めねぇ男になっちまったんだよ…!」
言いながらも、その頬に刻まれた傷を指し示す。
「この傷のせいで、たかが学生に一撃で沈められた、何て噂が立っちまった。以前までの荒稼ぎが出来なくなっちまったんだよ」
あまり誇れた話ではなかった。弾吾はその話を聞いているうちに、金縛りにあったような体が、次第に動かせるようになっていくことに気付く。
「そんでやることが、数に物を言わせた闇討ちかよ…萎えるぜ」
明らかな失望の念を込めた呟き。弾吾の言葉に、ベヤードの眉が吊り上がった。
「…何だと?」
怒りの感情を込めた呟き。取り巻き立ちは震え上がるが、何故か弾吾は全く気にならなかった。
「今のアンタを見て、わかったことがあるぜ。アンタも、あの御剣志狼も、俺よか数段…てか、話にならないぐらい強い。けど、それは明らかに質が違うものだった、ってことだ」
「ホォ…何が違うか、言ってみな」
自分を下に置いている、という弾吾の発言に余裕を取り戻したのか、先を促すベヤード。
弾吾は躊躇なく返答した。
「御剣志狼は破格に強ぇ。だがアンタはそうじゃない。ただ俺がアンタより弱いだけだった。そういうことだろ」
言ってから、腕っ節に関しては格上の相手に啖呵を切った割には、動揺していないことに気付く弾吾。
ベヤードの視線に明確な殺意が宿る。
弾吾は構うことなく、思い描いたありのままの答えを口にした。
「ホントに強い奴ってのは、力を見せびらかすような奴じゃねぇ…語らずとも、その背中を見ただけで、いつか追いつきたいと思わせるような奴のことを言うんだよ。悪いが、今のアンタを見ても、何の感情も湧いてこねぇッ…!」
それは、数日前から抱いていた悩みの、本当の答えだった。
「…よく咆えたぜ、ガキが。その威勢の良さだけは買ってやる」
「俺は、実はアンタに感謝してるぜ。ホントに久しぶりに…イライラが全部吹き飛んだ感じだ」
捻くれて押し黙るのではなく。自分の考えを持って真っ直ぐにぶつける。それがここまですっきりするものだとは思わなかった。これなら、不良として燻っていた自分も、折り合いの付かない両親との不仲も、何とかなるのではないかとさえ思う。
ここから、生きて帰る事ができれば、だが。
「そうかい、なら…笑ったまま、死にやがれ」
躊躇わず抜き放たれた真剣。ベヤードは一足飛びで距離を詰めると、命を奪う凶刃を大きく振り上げた。
ケンカではなく殺し合いである。ただの不良だった弾吾に、それを避ける術などない。呆然と、しかしその視線を逸らすことなく、弾吾はその場に立ち尽くす。
(…やべ。死んだわ)
振り下ろされる刃。その一太刀が袈裟斬りに振るわれ、肩から脇にかけてをばっさりと斬り捨てる。
それは弾吾の妄想だった。
弾吾の視界を覆う影。横から割り込んだ何か…誰かが、自分を庇っていることに、一拍遅れで気付く。
御剣志狼がナイトブレードを手に、ベヤードの刃を受け止めていたのである。真剣を使ったのは、木刀で受け止めるのは無理であるという判断からだろう。
「人ん家の庭先で刃物振り回すとは、どういう了見だコラ」
いつもの自然体ではない。怒気さえ含んだその言葉に、背後に居た弾吾さえ気圧された。
「出てきたな。もう一度俺と…!?」
「質問に答えやがれッ!!」
ベヤードの台詞を遮るように、力任せに横薙ぎにする志狼。姿勢を崩しかけたベヤードは、咄嗟に飛び退いて勢いを殺すと、慌てて剣を構えなおした。
「どういう了見、だと? 決まってるじゃねぇか、俺はお前を倒さなければ前へ進めねぇ…!?」
「闇討ちなんて思いっきり後ろ向きな行動しておきながら、何偉そうに喋ってやがるッ!!」
全くもって正論であった。返しの刃で武器破壊を狙うが、自動展開された炎の障壁によって遮られる。原理は分からないが、ベヤードが保有する特殊能力である。
ただ、前回は木刀であったために軽々と跳ね返されていた志狼の斬撃は、結界を抉るほどの衝撃を生み出していた。それに気付いたベヤードは若干顔を引きつらせながら、志狼から視線を反らせない。
そんな時、視界の外に居た不良の一人が、弾吾の傍まで距離を詰めていた。
「弾吾ォォォォォォォォォォッ!」
リーダー格だった男である。手にした金属バットを振り被り、突っ込んでくる。志狼は完全に出遅れ、手を出せる状況にない。
当の弾吾本人は、志狼たちに気を取られて反応が遅れている。
視線をそちらに向けたときには、既にバットは振り下ろされた後だった。
ガツンッ!
火花でも飛び出しそうな衝撃を受けて、意識を手放し掛ける弾吾。視界の端にぼんやりと、何やら悲鳴を上げながら手にした金属バットを振り上げている男の姿があった。
(……情けねぇ。俺は、こんな奴と同じように見られてたのか)
世間の枠から外れ、独り立ちも出来ずに、同じ境遇の仲間に群れて、より大きな力の前に屈服する、普通に生きることさえ出来ない半端者。事情があって正道を反れたわけでもない、自分自身とさえ向き合えなかった弱い自分。
(……苛立つわけだぜ。一番肝心な核心から真っ先に目を背けて、何に納得しようってんだ?)
強い奴は、黙っていてもその背中を追いかけたくなるような存在。自分が弱いと感じ、強い者に憧れるというなら、決定的に自分と違うものがある。弾吾にとってそれは、日常そのものだ。
(自分をありのままに表せる場所がある。それが日常ってものなら、そんな快適な環境を自分から壊す奴はいねぇ)
立ち向かう以上、守りたいものがあるはずである。志狼が自然体で対峙した敵に立ち向かえる男なら、その守りたいものというのはそれこそ、わざわざ意識するまでもないほどに当たり前なものなのだろう。
(それを守ろうと思うのは自然なことだ。だが、それには自分から行動しなけりゃ始まらねぇ…!)
志狼が自らを鍛え始めた理由を、弾吾は知らない。しかし、今なおそれを継続させている理由は、想像することができた。
(今のままじゃ足りないんだろ? 守りたいものを守り続けるために、アイツは強くなろうとしている。だからアイツは強いんだ…!)
弾吾は、飛びそうになる意識を無理矢理繋ぎとめると、大地を砕く勢いで踏みとどまる。合わない視線の焦点さえ合わせて、目前の男を睨み付けた。
怯えたように全身を硬直させるのが見て取れた。弾吾はしてやったりの笑みを浮かべる。
(そんな強さに、憧れを覚えちまったら…!)
手放さなかった木刀を握り直し、両手で大きく振り被る。僅かな時間、憧れた背中から盗んだ技術の欠片。剣道と呼ぶのもおこがましい、稚拙な模倣の域を出ない面打ちの構え。
だがそれは、確かな心を宿した剣士の一撃。
「追いかけるしか…ねぇだろうがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
溢れる感情を込めた一撃は、寸分違うことなく男の額へと叩き込まれた。
ドォォォォンッ!
…繰り出した弾吾本人さえ驚くような、爆音が響き渡った。
「………………………………………………………………………………………………………………………あぁ?」
雑巾絞りの要領で引き絞った木刀を、振り下ろした姿勢のままで硬直している弾吾。
そして、金属バットを振り上げた姿勢のまま、顔面を煤だらけにして即席のアフロヘアーとなった元・不良リーダーの男。
弾吾の木刀が繰り出した一撃が接触すると同時に、刀身に蓄積されたと思わしき炎が瞬間的に発生した結果だが。
端的に言ってしまえば、木刀が接触と同時に爆発したようなものであった。
見れば、志狼、ベヤード、そして背後に控えていた不良一同の視線も釘付けである。その表情が一同に呆けていたことは笑いを誘う光景だが、弾吾自身も同じような表情をしているだけに他人のことは言えない。
弾吾は恐る恐る、手にした木刀を眺めてみる。表面がちょっと焦げていたりしたが、つくりそのものは普通である。
その時。思い出したように、アフロリーダーの体が傾いたかと思うと、そのまま仰向けになって倒れた。白目を剥いていて、意識など綺麗さっぱり吹っ飛んでいるようである。
しばし呆然と突っ立っていた弾吾に、恐る恐ると言った様子で声が掛かる。
「…弾吾。お前、マイト使えたのか…?」
マイト。この世界にいる者であれば、誰でも使えるという異能力。個人によって属性や大きさ、形にも差が出るというもので、志狼が扱う雷、ベヤードが纏う障壁などもこのマイトが顕現したものである。
「…いや、使える…らしいな?」
どうにも要領を得ないのは、それが事実であるという認識を理解できないでいる証である。状況から見ると疑いようもないが、今まで出来なかったことが突然出来るようになれば、困惑の一つも浮かべようと言うものだ。
ただ、どうやら弾吾には”火”、それも瞬間的に解放される”爆発”の能力が目覚めたようだ。
「嘘だろ…?」
「何でアイツがマイトを…」
「こんな話聞いてないぞ…!?」
雁首を揃えていた不良たちが、青ざめた顔で後ずさりを始めた。その気配に気付いたベヤードは慌てて制止しようとするが、一瞬遅かった。
「うわぁ、だめだぁ! マイト使いが相手なんて!!」
「それも二人に敵うわけがねぇ!!」
「た、助けてくれぇぇぇぇぇ!!」
口々に恐怖の言葉を吐き出しながら、散り散りに逃げ去る不良たち。あとには、悪態をつくベヤードと、余裕を取り戻した志狼、そして木刀をぼんやりと眺めながら硬直する弾吾の三人に絞られた。
志狼はナイトブレードを地面に突き刺すと、不良が投げ捨てて足元に転がっていた木刀を、わざわざ拾ってベヤードに突きつける。
「さて。頼みの下っ端も逃げ出しちまったようだぜ?」
それは最大の皮肉であった。その言葉に現実に引き戻されたベヤードは、怒りの形相で振り返った。
「どこまでもコケにしやがる…! 俺を誰だと思ってやがるんだぁぁぁぁぁっ!!」
真剣を振り被って突っ込んでくるベヤード。しかし志狼は慌てることなく、雷迸る木刀を振り被り、攻撃に繰り出された刃を目掛けて横一閃に切り払う。
大した抵抗もなく、横っ腹を叩かれた剣は呆気なく粉砕された。
「なっ…!?」
驚愕に目を見開く間にも、志狼は返す刀でベヤードを狙う。自動障壁によって遮られるが、跳躍した影響で踏ん張れなかったのが災いし、自らの障壁が生んだ衝撃波に弾かれ、後方に飛ばされると地面に叩きつけられ、盛大に尻餅をついていた。
志狼は何かに気付いたように、ニヤリと笑った。
「自分に向けられた攻撃に対して自動防御、威力は炎による衝撃波で相殺、か。障壁をぶち破る以外に、お前を倒す方法を見つけたぜ。弾吾のおかげでな」
視線だけを弾吾に向ける。弾吾は呆然とした様子で眺めているだけだ。
志狼は手にした木刀に、ありったけのマイトを収束し始める。その動作に不穏なものを感じたのか、ベヤードは身を起こしで身構える。真剣を失った今、頼れるのは自らの障壁のみ。だが、それは以前に一度破られている。
志狼は悠然と歩み寄る手にした木刀は、雷の塊と化して輝いている。触れただけで暴発しそうな勢いでもある。
「轟雷斬使って余計な被害を増やすわけにはいかないからな。大雑把な手を使うけど、悪く思うなよ」
「ふ…っ、ざけやがってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
躊躇なく振り被った志狼に対して、最後の捨て台詞を吐くベヤード。
志狼は木刀、というか雷の塊を叩きつける。展開された障壁を突き抜けることなく生み出された衝撃は、術者であるベヤード本人の体重を上回り、ホームランバットのスイングの直撃を受けた硬式ボールのような勢いで弾き飛ばされ、そのまま塀へと突っ込んでく。
「う…わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!?」
塀との衝撃は自動防御障壁によって遮られるだろう。
しかし、塀に向かって突っ込んだ勢いが消えるわけではなく。
「ぐえッ…!!!?」
前と後ろ。自らの障壁が生み出した衝撃に挟まれたベヤードは、潰れた蛙のような悲鳴を上げて地面に落ちた。意識など保てるはずもなく、そのまま指一本動かすことなく気絶した。
志狼はその無残な姿よりも、彼が叩きつけられるはずだった塀へと視線を向ける。
「げ、結局塀は壊しちまった…まぁいいや、どうせ明日も修理屋を呼ぶ羽目になるし、ついでだろ」
毎朝奥義で壁に叩きつけられる光景が日常となっていることに冷や汗を掻きつつも、志狼は肩の力を抜いた。そして既に気絶しているベヤードに木刀を突きつけると、睨み付けるようにして言い放つ。
「俺を倒さなきゃならんつーなら、まず自分を鍛えなおしてから来いよ。俺は逃げも隠れもしねぇからな……………………?」
その姿勢のまま、志狼は首を傾げた。弾吾を振り返り、尋ねる。
「なぁ。あいつ名前何だっけ」
「ベヤードベヤード! 忘れてやるなよそこはッ!?」
慌ててフォローする弾吾。
彼が気絶していたのは、ある意味幸せであったかもしれない。
その時、弾吾の視界が揺らいだ。
「あ…れ?」
途端に平衡感覚を失い、全身からも力が抜けていく。
何故かと考える必要はなかった。そもそも、マイト覚醒のインパクトで忘れ去られていたが、弾吾は金属バットで頭部を殴打されているのである。それこそ額からダラダラと血が流れている状況で、貧血にならないわけがない。
「…お花畑と川が見えるぜ?」
「渡るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
慌てて駆け寄る志狼が視界に入った時。弾吾は意識を完全に手放した。
更に数日後。志狼はいつもと変わらない日常を過ごしていた。
いつもと変わらない朝を迎えて、いつもと変わらない仕度を整え、いつもと変わらない奥義で壁にめり込んで。
何だか泣きたくなるのを必死に堪えながら朝食を終えると、やはりいつもと変わらずにエリィと共に学園へと登校していた。
エリィは、ふと思い出したように口を開く。
「そう言えば、弾吾君ってもう退院できるんだった?」
「ああ。元々見た目が酷かっただけで、骨にも異常はなかったんだとさ」
肩をすくめる志狼。
あの後、事態を傍観していた剣十狼によってあらかじめ呼ばれていた救急車によって、弾吾にベヤード、そしてアフロヘアーの不良は、揃って病院へと運ばれていた。どこまでお見通しなんだか分からないとは志狼の弁だが、そのおかげで事なきを得たのは幸いである。
「夜中の襲撃、凄かったみたいだねー。私もマイト覚醒の瞬間見たかったなぁ」
「…つか、あの騒ぎでグースカ寝てられたお前が凄ぇよ」
頭を掻きながらぼやく志狼に、エリィは僅かに頬を膨らませた。
「しかし火のマイトとはねぇ。力ある言葉ってのは確か、勇気だったか?」
話題を切り替えられて言葉を封じられる形となったエリィだが、エリィにとってもそれは強い関心ごとである。
「…うん。きっと、自分自身で立ち向かおうと思える、目標みたいなものが出来たんじゃないかな」
「目標、ねぇ…」
志狼は思い出す。弾吾が口にしていた言葉を。
<ホントに強い奴ってのは、力を見せびらかすような奴じゃねぇ…語らずとも、その背中を見ただけで、いつか追いつきたいと思わせるような奴のことを言うんだよ>
これに関して、志狼は同意せざるを得なかった。追いつくべき、そしていずれ追い越すべき背中を見てきた者として。
そんな事を考えながら歩いていると、目の前の道路の中央に仁王立ちして待つ、一人の人影が視界に入ってくる。
「おはよう、ございます。志狼…先輩、エリィ先輩」
ぎこちない敬語を使ってくる、その声には聞き覚えがあった。つい今しがた話題に上っていた、紅弾吾その人である。
ややよそ見しながら歩いていた二人は、正面からその人物を見ると、その時点で目が点になった。
剣道の袴姿で竹刀を抱えた、”坊主頭”の少年の姿がそこにあった。
「………………………………………………………………ぷっ」
どちらともなく噴出した次の瞬間、爆笑する二人だった。
「笑うなッ!!? 頭の手当てをするために邪魔だったんだから仕方ねぇだろう!?」
「いやだって…弾吾が団子頭って…ッ、ぶははははははははははッ!!」
「団子頭…! 意味違うけど…ッ! あはははははははははッ!!」
「上手い事言うなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!?」
三者三様の騒がしい声が響き渡り、行き交う人々の奇異の視線が突き刺さる中。
ようやく志狼とエリィが落ち着きを取り戻した頃には、弾吾は不貞腐れてそっぽを向いていた。
「悪かったよ、弾吾。ホントに心配してたんだって」
「信じられるかッ!?」
「ホントホント、さっきまで弾吾君の話してたぐらいだし」
「嘘くせぇ!!」
取り付く島もないとはこのことである。二人は顔を見合わせ、流石にやりすぎたと反省する。
仕方ないので弁解を諦めて、話題を変えることにする志狼だった。
「…まぁとりあえず、お前ここで何してるんだ? もう退院とは聞いてたけど。それにその竹刀…」
話題が変わったことで、不機嫌な表情を崩すことこそないものの、弾吾は振り返って答えを返した。心配をかけたという点で、気を使う部分はあるようである。
「…今日から復学だよ。それと…剣道部に入部した」
「へ?」
その言葉に、再び目が点になる志狼。しかしエリィの方は、どこか納得した様子で頷いていた。
「目標になる何かを見つけたんだね」
エリィの言葉に、弾吾は視線を逸らしつつ頷いた。
「へぇ、そうなのか。で、その目標……っての、は?」
口を開いた志狼に、瞬間的に突きつけられるのは、弾吾が手にした竹刀である。どこか据わった目つきで志狼を捉えながら口を開いた。
「ホントは迷惑掛け通しだった手前、言うのも躊躇ってたけど…さっきの爆笑で完全に吹っ切れたぜ」
相当根に持ってしまったようである。後の祭りではあるが、志狼は心の底から申し訳無い事をしたと思うようになっていた。
「御剣志狼! 俺はアンタの背中を追いかける! いつか並んで、追い越すためにだ! その為に自分自身を叩きなおして、手に入れた新しい力を使いこなす! 必ずだッ!!」
竹刀の刀身に、炎が宿る。覚醒した火のマイトである。それは小さな灯火であったが、どこか芯の強さを感じさせる強い輝きを纏ってもいた。
弾吾は竹刀を振るい、火を消した。それを肩に担ぐと、やるべきことは全て終えたと言わんばかりに背を向けて歩き出した。
「…そんだけだ。じゃあな…………先輩方」
それだけを言い残して、弾吾はその場を歩み去っていった。
しばらく呆然とその後ろ姿を見送っていた志狼に、エリィが声を掛けた。
「手ごわいライバル、出来ちゃったみたいだね?」
どこか悪戯めいた響きの言葉に、志狼は苦笑を浮かべながら言葉を返した。
「ああ。俺も負けちゃあいられねぇなッ!!」
かくして、彼らがそれぞれの形で向き合うことになる、”日常”が始まるのだった。
後に紅弾吾は、その向上心と気迫によって剣道部主将まで上り詰め、その名を知らしめる事になるのだが…
それはまた、別の物語である。